あなたは浮谷東次郎を知っていますか。1957年、15歳の時に50ccのクライドラーで千葉県市川市の実家から、大阪まで往復した時の体験をまとめた『がむしゃら1500キロ』や、アメリカ遊学後の自動車レースでの活躍が有名ですが、1965年の8月に鈴鹿サーキットでの練習中に事故に遭い世を去っています。享年23歳でした。
その東次郎と高校生の頃から親交が深く、彼が亡くなってから35年以上経った現在も毎年の様に東次郎を偲ぶ会に出席されているのが、現在株式会社無限の社長である本田博俊氏です。東次郎と博俊氏の出会いは1958年、ふたりが17歳の時でした。そのきっかけになったのがスーパーカブなのです。
1958年11月のはじめ、博俊氏の父親である本田宗一郎宛てに一通の手紙が届きました。東次郎からです。そこには「貴殿の御子息がCub 50ccに乗っておられるとの事、つきましては知り合いになりたく思います・・・」とあり、一緒に出版されたばかりの『がむしゃら1500キロ』が同封されてたのです。
東次郎は博俊氏がこの年の8月に発売されたスーパーカブに乗っている事を雑誌で知り、彼一流の行動力で宗一郎に手紙を書いたのでした。博俊氏は「当時僕は、父の会社が発表したばかりのCubに乗っていました。ですから彼にとっては、僕よりCubの方に会いたかったのでしょう」と当時を述懐しています。
この時東次郎はヤマハのYD-1という250ccのバイクに乗っていましたが、当時4サイクルの50ccでありながら、5馬力というパワーのスーパーカブは驚異的であり、何としても実車を体験してみたいと思ったのは想像に難くありません。当時のスーパーカブのカタログにはパリラやモトム等、当時高性能を謳った外車との比較表が載っていたくらいなのです。
東次郎は『がむしゃら1500キロ』のあとがきに(今は250ccのバイクに乗っているが)「しかし、ぼくは50ccバイク(モ-ペット)の良さというものを忘れる事はできない。チャンスがあればもう一度モーペットで大いにあばれてみたいと思う。幸い日本でも、ホンダのスーパーカブ、タス、スズモーペット等、優秀なモーペットが完成されてきた。今度は日本のモーペットに乗ってみたい。広大な北海道へ行ってみたい。」と書いています。
しかし、東次郎の目的はスーパーカブだけではなかったはずです。彼の家は裕福であり自動車やオートバイと接する機会には恵まれていたので、スーパーカブに接するチャンスは他にもあったでしょう。彼は本田宗一郎の子供が自分と同い年な上、バイクが好きだという事を知り友達になりたかったので手紙を出したのだと思います。当時、彼の通っていた両国高校は進学校で、東次郎と話の合う友人は少なかった様です。
博俊氏が東次郎とはじめて会ったのは1958年11月23日、湘南で開かれたレースの会場でした。その時から2人の交流がはじまったのです。翌年の3月には一緒に浜松までツーリングをしており、全行程917キロを東次郎のYD-1がリッターあたり18km/lで走ったのに対し、博俊氏のスーパーカブは56km/lの燃費だったと記されています。親交はその後も続き後の自動車レース活動へとつながって行きました。また、後に博俊氏は東次郎が紹介した女性と結婚されています。
短いがその生き方が人々に強烈な印象を残した浮谷東次郎と、父親の威光に頼らず自らの力で世界有数のレース用エンジンサプライヤとなった博俊氏の縁となったスーパーカブ。出会った当時、東次郎は博俊氏のスーパーカブを借りて乗った事でしょう。東次郎はどんな感想を持ったのでしょうか。『がむしゃら1500キロ』や『わが青春の遺産』の様な彼独特の素直な文体のインプレッションを読んでみたいものです。
※文中の引用は以下の書籍からのものです。
『浮谷東次郎 速すぎた男のドキュメント』 岩崎呉夫著 三樹書房刊
『オートバイと初恋と わが青春の遺産』 浮谷東次郎著 ちくま文庫刊
『がむしゃら1500キロ』 浮谷東次郎著 ちくま文庫刊
○Link: 浮谷東次郎 web site
○Link: カブ徒然『浮谷東次郎』