博俊さんとスーパーカブ

先日私は、C100の愛好会である100株会の方たちと共に、1959年製のカブ(C100)で宗一郎のお墓参りに伺った。お墓は富士山の麓の霊園にあり、彼はその中でもまた高い場所に眠っているため、1959年当時のままのC100では、急な坂を上るのがやっと。最後は1速で地面を足で蹴りながら上った。

墓の前では宗一郎の長男で、無限の社長でもある本田博俊氏が奥様と2人で迎えてくれ、博俊氏は私のカブを見るなり「懐かしいなぁ、これだよ、これがボクが乗っていたカブだよ」と嬉しそうに奥様と私に話してくれる。宗一郎は自分の息子は入社させないと公言するほど公私混同を嫌ったため、巷で想像する様な会社のバイクを博俊氏に与える事はなかったそうである。

そんな宗一郎が16歳になった博俊氏にはじめて買ってあげたのが、この年、1958年に発売されたC100だそうだ。博俊氏によると「買ってもらったのは出たばかりの時期だったので、車体番号は100番足らずの車両だった」との事。

それからというもの、学校が終ると学生帽のままC100であちこちを走り回り、土曜日や日曜日は箱根や山梨の昇仙峡、軽井沢などへひとりで走りに行った。遠くは浜松の宗一郎の実家などにも行ったとの事。ある時など「箱根の宮ノ下の急坂を1速で上っていたら、遅いため追いかけてきた犬に足を噛まれた事があった」と楽しそうに話してくれた。

墓参の後も博俊氏は色々と話してくれた。C100に乗り始めてしばらく経つとアクスルシャフトのネジがダメになってしまい、原因が組立時のミスである事が分かって宗一郎に文句を言ったら怒り出し、工場の担当者を自宅に呼びつけて「おまえたちは人を殺す気か」と怒鳴りつけていたそうである。博俊氏によると「自分は良いモルモットにされていたワケで」宗一郎は息子のためではなく、製品への責任感で怒ったのだろう。

博俊氏は程なくしてC100を改造。レッグシールドを外し、ハンドルを交換してレーサー風にしたのは当時の若者の定番だった。当時出回りはじめたばかりのヘルメットを「土間でおばさんがFRPをペタペタ貼っていた」というアライ※1で買い、それをかぶって走ると「こんな物をかぶって走るのは飛ばすヤツに違いない」とかえって警官に止められる事が多かったそうだ。そんな時代だったのだ。

物心ついてからの博俊氏は、宗一郎と顔を合わせるといつもケンカになってしまうのであまり顔を合わせない様にしていた。そのためこの頃のホンダの製品は覚えているが、宗一郎との思い出はそれほど無いらしい。しかし後年、宗一郎が仕事を離れてからは極めて仲が良く、キャンピングカーに乗って一緒に絵を描きにいったりしたとの事。

この墓も宗一郎と一緒に何ヶ所も候補地を回った末、富士山の見えるこの地に決めたそうだ。博俊氏は「まわりのお墓は日の昇る東の方向を向いているけど、この墓だけ違う方向を向いているでしょ。好きだった富士山の方向を向いているんだ」との事。これも宗一郎らしさなんだなぁと思うと胸に来るものがあった。

 ※1 アライヘルメットの当時の社名は株式会社新井広武商店

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